鍵を持つ側にいるということ【介護から精神科へ、権限と倫理の話】
人の自由を制限できる場所で働くようになって、ずっと忘れていた記憶がよみがえりました。老健で働いていた頃、隣のユニットから聞こえてくる怒鳴り声に、何も言えなかったことです。
その違和感が何だったのか、精神科に来てようやく、自分の言葉になりました。
私は介護福祉士として老健で働いたあと、准看護師・正看護師の学校を経て、今は精神科の看護師をしています。今日は、ずっと胸の奥に引っかかっていた話を、正直に書こうと思います。少しデリケートな話になりますが、誰かを責めるためではなく、自分自身を見つめ直すために書きます。今、現場で同じようなことを感じている人に届くと嬉しいです。
仕切りの上から、聞こえてきた声
当時働いていたのは、ユニットケアの老健でした。ユニットどうしの仕切りの上のほうは開いていて、隣のユニットの様子がなんとなく伝わってくる環境でした。
そのユニットに、私より先輩のスタッフがいました。普段は温厚で、優しい人です。でも、感情的になったときは、利用者さんへの言葉がきつくなる人でした。
「どうしてこんなことするの」「もう、いい加減にして」
敬語もなく、まるで身内に感情をぶつけるような声が、仕切りの上を越えて聞こえてきました。私はそのたびに、いたたまれない気持ちになりました。でも、何も言えませんでした。
一度だけ、自分のユニットのリーダーに「あれ、何とかならないんですか」と相談したことがあります。返ってきたのは、こういう答えでした。介護主任も注意はしている。その都度、本人も反省している。でも、感情的になると抑えがきかないようだ、と。
それなら、リーダーからもその都度言ってくれればいいのに。そう思いましたが、相手は勤務年数の長いスタッフで、リーダーも言いにくそうでした。結局、その声は止まりませんでした。
でも、私も同じでした
ここまで読むと、まるで私がそのスタッフを一方的に責めているように聞こえるかもしれません。でも、正直に言います。私も、同じでした。
新人だった私は、認知症のケアにまだ慣れていませんでした。同じことを何度も繰り返される。こちらの説明が届かない。そういう場面で、腹が立つことは限りなくありました。語気が強くなったり、対応が雑になってしまったことも、正直あります。
あのスタッフを責められる立場では、本当はなかったのです。
「しまった」と思ったときは、できるだけその場を離れたり、ほかのスタッフに対応を代わってもらうようにしていました。でも、そもそも人手が少なかったり、夜勤で一人きりの対応だったりすると、それも物理的に無理でした。そういうときは、自分を抑えに抑えていました。
そのストレスを、私はどう解消していたか。休みの日にジムに行ったり、プールで泳いだり、とにかく体を動かすことでした。
村上春樹さんのエッセイで読んだ「腹が立ったら自分にあたればいい」という言葉が、昔から好きでした。腹が立った分だけ自分の体を動かせば、ストレスも解消できて体も丈夫になる。その考え方に影響されていたのだと思います。「あとでジムに行って、徹底的に体を動かして発散させよう」と思うことで、その場をしのいでいました。
精神科に来て、また同じ場所に立った
時が流れ、私は精神科の看護師になりました。そして、あの老健時代の記憶と地続きの場所に、もう一度立つことになります。
精神科では、自分の要求を強く通そうとする患者さんと関わる場面があります。
たとえば、「イライラするから」と頓服薬を飲んだ数分後に、また別の薬を求めてくる方。「飲んだばかりだから、効果が出るのを待ちましょう」と伝えても、納得されません。処方されている頓服を、限度の回数まですべて飲みきらないと気が済まない。そういうこともあります。
対応している側も、だんだん声が大きくなってしまう。その気持ちは、痛いほどわかります。私自身、「言ってしまいたくなる」瞬間が何度もありました。
また、愛着の課題や知的の障害を抱えた患者さんの中には、ご自身の要求を通すために、事実と違うことを口にされる方もいます。決まりで一日一本と約束しているおやつのジュースを、「まだもらっていない」「二本もらえると聞いた」と訴える。新人や応援の看護師は、それを信じて応じてしまうことがあります。
その制限には理由があります。経済的な事情もありますし、その方の体調を守るためでもあります。だからこそ、約束が崩れてしまうこと、そして「信頼関係を築けていたと思っていたのに」というやりきれない気持ちで、私自身が感情的になりそうになることがありました。
そういう方が、優しい看護師、とくに女性スタッフのそばを離れず、思いどおりにならないと身体的な攻撃に出てしまうこともあります。それでも、障害があることを理由に、傷ついた側が泣き寝入りになってしまう。そういう現実も、現場にはあります。
仲間を守りたいという気持ちと、看護職ばかりが我慢を強いられる理不尽さへの怒り。その両方で、心が波立つことがあります。
CVPPPという研修を受けて、考え方はずいぶん変わりました。それでも、人間だから、腹は立ちます。
鍵を持つ側にいると、その重さを忘れそうになる
精神科には、保護室があります。患者さんの自由を、物理的に制限できる場所です。
要求が止まらない患者さんを前にすると、「そんなことばかり言っていたら、鍵のかかる部屋に入ってもらうことになるよ」と、言ってしまいたくなることがあります。もちろん、これは患者さんの行動を言葉で縛るスピーチロックにあたるので、口には出しません。でも、その誘惑が頭をよぎる瞬間は、確かにあるのです。そう思った後、「どうしてこんなことを考えてしまうのだ」と自己嫌悪に陥ることも、しばしばです。
保護室から数時間だけ出て、解放観察をしている患者さんが、少し落ち着かなくなったとき。すぐに部屋へ戻して鍵をかけようとするスタッフを見かけることもあります。
もちろん、状況が切迫していて、ご本人や他の患者さんの安全を守るために、ほかに手段がないのなら、そうすべきです。それは必要な判断です。問題なのは、「落ち着かない、だから鍵」と短絡的に考えてしまうことのほうだと、私は思っています。
まず話を聞く。処方されている頓服を飲んでもらう。そういう方法を先に考えることが、本当は大切なのではないか。鍵をかけるのは、その先の話のはずです。
鍵を持てる場所にいると、その重さを、ふと忘れそうになる。これは、誰にでも起こりうることだと思います。
あの頃の違和感は、間違っていなかった
老健の頃の私が、倫理を問われない立場だったわけではありません。利用者さんと向き合う仕事である以上、当時から、私の振る舞いはずっと問われていました。
ただ、精神科という、人の自由を制限できる機能を持った場所に来て、その問いが、より自分に近いところまで迫ってくるようになりました。場所によって倫理の重さが変わるわけではありません。介護でも看護でも、倫理の大切さは同じはずです。変わったのは、自分がそれにはっきり気づいたかどうか、ただそれだけなのだと思います。
仕切りの向こうで怒鳴っていたあの先輩も、語気を強めてしまった新人の頃の私も、今、頓服を前に「言ってしまいたくなる」自分を抑えている私も、どこかで地続きです。みんな、同じ弱さを抱えた人間です。
だからこそ、踏みとどまりたい。あのとき言葉にできなかった違和感は、今やっと、こうして言葉になりました。それは間違っていなかったと、今は思います。そして今度は、自分が問われ続ける番なのだと思います。
精神科の現場で感じる葛藤や、保護室をめぐる倫理について、ほかの記事でも書いています。よければあわせて読んでみてください。
- 精神科の”常識”に戸惑った話。保護室や治療的隔離への向き合いについて書いています。
- 老健で6年働いて気づいたこと。介護の現場で見えたもの・見えなかったものについて。
- 精神科転職3年後の本音。看護観がどう変わってきたか、変わらなかった根っこは何かについて。
精神科への転職を考えている方は、これまでの記事をまとめたページもあります。